人は苦しみ悲しみを背負って生きています。
 
その拠り所が、
 
教会やお寺、神社ですが、
 
教会やお寺、神社等に尋ねても、
 
貴方の助けになりません。
 
そこで祈り、お賽銭にお金を入れて拝むだけで。
 
誰一人、
 
貴方の悩み苦しみを救う人もいません、
 
聖職者や僧等特別な修行を受けた人たちだけが、
 
救われそうな雰囲気を醸し出し。
 
貴方は、
 
嘆き悲しみながらその場から静かに立ち去ります。
 
それが今の教会、神社、寺院の姿です。
 
宗教界は貴方を助けるためにあるのではないのです。
 
多くの御布施を集め大きな権力を保ちたいために、
 
争っているだけで、
 
人々の悩み苦しみを救う場所ではないのです。
 
稀に親身に悩み苦しみを聞く宗教もあります。
 
大概の宗教は、
 
貴方の悩み苦しみを解決してくれることはしないのです。
 
 
神社、お寺、教会等は個人的に、
 
貴方の悩み苦しみを聞いてくれる場所でもないのです。
 
ただ口を開いて御布施箱が、
 
貴方を待っているだけです。
 
私も色々な宗教を見て周りましたが、
 
余りにも悲しい現実に只々呆れるばかりです。
 
宗教は、
 
人々を救うと言うのが大きな目的であります、、、が、、
 
大抵は、人々の悩み苦しみを救うどころか、
 
御金集めの集団が殆どです。
 
確かに教団も大きくなれば建物の維持費や、
 
そこで働く職員の給料も大切です。
 
しかしそれでも、
 
いらない無用の豪奢な建築物が多すぎるだけです。
 
昔からある建物なら歴史上大切な物もあるでしょうが、
 
殆どは無用の長物です。
 
普段何かに利用すれば良いが、
 
殆ど閉めた状態で、
 
大きな空間が勿体無い気がします。
 
それが権威を保つ道具とも見えますが、
 
芝居小屋もいいところです。
 
もっと庶民的であっても、
 
霊的空間をそんな形で表現しなくても、
 
元々権威あるように建立しているので、
 
もう少し人々に役に立つ空間にしてもよいと思えるが。
 
 
 
問題は他にもあるような気がする。
 
経典である。
 
仏教や教会の経典は分厚く如何にも知識欲を満足させ、
 
知識を増やせば増やすほど神に近づけるという、
 
傲慢な宗教学者の自己顕示が悲しい。
 
知識を増やせば増やすほど信仰心が薄らぐという、
 
事実も知らずか?
 
尚一層知識を増やし、
 
如何にも知識が増えれば、
 
神に近い人物と言わんばかりの、
 
上から目線の、
 
傲慢な人間が増えていく。
 
実は、
 
知識を増やせば増やす程、争いの元となる事を知らない。
 
傲慢な宗教学者の反省すべき事である。
 
キリスト教でも、
 
ユダヤ教でもイスラム教、仏教等、数々の宗教では、
 
分厚い経典があるけど、
 
一般の人には勉強する時間もないし、
 
手にすることも出来ないのが事実です。
 
世界の秘境の地で経典を手にできるのも稀です。
 
私に言わせれば経典は必要ないのです。
 
必要なのは人間が肌で感じている、
 
昔から心に刻み込まれている。
 
傷つけ殺すな。
盗むな。
隣人を愛せよ。
姦淫を犯すな。
悪口を言うな。
妬むな。
恨むな。
貶めてはならない。
差別してはならない。


それらを意識して祈る事が大切である。
 
それだけでも争いも、
 
もっと少なくなるはずである。
 
例えば経典は、
 
神の言葉と捉えていると言われれているが、
 
そこに大きな間違いがある。
 
聖書は全て神の言葉と捉えて信じれば間違いを犯す。
 
悪魔が書き加えた箇所もあるということを、
 
感じ取らなければならない。
 
悪魔がキリストを誘惑したように、
 
悪魔にとって人間の足元を乱し、
 
人間同士の争い戦争を巻き起こし、
 
世界を支配しようと思えば、
 
神の言葉と言われる聖書に、
 
悪魔の言葉を書き加えることが、
 
一番手っ取り早く簡単なことでもある。
 
悪魔がそのことを利用しない手はない。
 
それゆへに数々の経典は、
 
注意しながら読むことが大切である。
 
私も聖書等興味があり読んでいるけど、
 
神の言葉とは思えない箇所が幾らでも出てくる。
 
特に宗教同士の違いの争いにおいて、
 
敵への壊滅攻撃は凄まじきものがあり、
 
神の言葉とは絶対に掛け離れている、
 
悪魔の言葉としか思えない箇所が幾度もあり。
 
よくよく注意しながら読む必要がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
私の神への思い。
 
 
昔から私は霊感が強いのか?
 
それとも単なる夢の中なのかは知らないが、
 
寝ている時、神の声が聞こえる時がある。
 
目覚めた最初の時間は覚えているが、
 
時間が経つとともに忘れてしまい、
 
後で思い出して、
 
あれは神の声だったのかと、
 
自答自問する時が何度もある。
 
金縛りのあった夜は心身とも激しく疲れる時がある。
 
私はそれが神の言葉と信じている。
 
昔はそんなに気にしなかったが、
 
長いこと神の声が夢の中に出てくるので、
 
今は神の声と捉えている。

 

 
地球の歴史の中で、
 
地球地獄牢説を説ているのは、
 
此処7千~8千年ぐらいであり、
 
宇宙の生誕期間から短い気がするが、
 
宗教の本当の意味での歴史はこれからである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

キリスト教の福音書でも4つの中身が不確かで、
 
まだこれから破片が発見され完成に近づく。

キリスト・イエスの聖母マリアの章が何ページもないのに、
 
全世界で聖母マリア崇拝者が多すぎるのも、
 
キリスト・イエスが生誕する前に、
 
聖母マリアが神の御言葉を伝えていた。
 
その関係もあり聖母マリアが今でも世界で崇拝されている。
 
これからも、
 
聖母マリアの福音書も発見され完璧な聖書の姿も見えてくる。
 
 
 
 
 
考古学者が新しい福音書を発見する度に聖書の改革が必要で、
 
その事での宗教派閥の争いも凄まじい争いが待ち受けている。
 
宗教の歴史はまだまだ浅い。
 
真理なる宗教が完成する日はまだまだ遠い。
 
 
だからまだ完成でない宗教に向き合うには、
 
聖典の勉強より、
 
神の名を呼び求め神に救いを求めることが大切である。
 
 
 
 
大切なのは。
 
愛であり。
 
 

 

 
それを基本に祈ることが大切である。
 
 
 
 
世界中が、
 
広大な宇宙である。
 
ヤッハーアラーバー神の名前を呼び求める日が来る。
 
 
 
 
 
 
 

 

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